Sunday, February 13, 2022

心が傷つく選択肢


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

タクティクスオウガやLife Is Strange, Fable、Mass Effectなど、 RPGを主としてプレイヤーに重要な選択肢を突き付けるようなデザインは多い。最近ではCyberpunk2077。ただ、そのどれもが狙った効果を上げているとは考えにくい。そこで技法的な観点から選択肢というものを考察してみたい。


ここでいう効果とは、つまりどれだけプレイヤーが切羽詰まってその問題を悩んで考えられるか、ということ。潜入捜査官が、マフィアのボスに身バレした仲間の一人を選んで処刑しなければいけなかったり、大義のために家族または友人から生贄を差し出さなくてはいけなかったり。そういうどんな選択をしても辛いというような設計。つまり心が傷つく選択肢。

こういう選択肢は単に印象的なだけでなく、往々にしてプレイヤー自身の価値観の本質を問いかけるものとして作用するため、ゲームの体験価値を決定づける重要なフィーチャーとして存在する。ゲームは気楽に楽しむもの、暇つぶしであるべきと考える立場はあってもいいと思うが、そんなゲームしか世の中になければどんどんゲームの体験性がゴミになっていくので、反対方向の体験性をどんどん加速させたらいいと思う。世の中バランスが大事ですよね。

選択肢によってプレイヤーがプレイヤー自身を問いなおすということは、選択肢というのはデザイナーからプレイヤーへの問いかけとも翻訳できる。重要な問いかけをするには、何を聞くか、どう聞くか、が重要なポイントになる。

例えばうっかり無人島に漂着したとき、手元に一切れの豚ロースがあったとしよう。大好きなトンカツにすればおいしく食べられて脱出のために手足を動かす元気も湧くが、すぐに腐ってしまう。干して乾燥させれば長持ちはするが、正直おいしくないし、やる気も出ないので働く気力も湧かない、といった場合。

この問いかけは、悪例。トンカツだろうが干し肉だろうが、サバイバルという緊急事態で呑気にトンカツなど作っていては却って後先不安が増大するに決まっているから、そもそも選択肢の重みづけに失敗しているということ。

またサバイバルにおいて確かに食糧問題は重要ではあるが、そもそももう肉を持ってるという前提からして、例えば餓死寸前で愛犬のチワワを殺して肉を取るか、限りなく不可能に近い海鳥の捕獲を狙うか、といった緊迫した問いかけに比べれば微々たる問題に矮小化してしまっている。 

そしてこれはある意味当然ともいえるが、トンカツを作って早々に飢えようが、主人公がまずそうな顔をして味気のない干し肉を食べようが、プレイヤーとしてはそのような飢えやメシのマズさを感じることはない。プレイヤーがそこに存在していないのだから、感じようがないのだ。

こんな設問では脳みそをぶち抜いてハートまで揺さぶらないに決まってる。

つまり考慮するモノサシは、ジレンマをどう最適化するかという問題、選択肢が突き付ける問題提起の重要度そのもの、そしてプレイヤーのコミットメントにある。

1. ジレンマの最適化

ジレンマとは「2つの選択肢のうち、どちらを取っても嫌な結果になる」状態なので、片方だけちょっぴりオトクだったりすれば意味がなくなる。また2という数字が入っているのが重要で、だからあえて「葛藤」と言わないのだが、選択肢が3つ4つと増えていくと価値観の対立軸がぼやけてくる。例えばよくある「2人乗りのボートに乗っていて、沈む前に友人か家族どちらかを海に落とさないといけない」では、家族と友人どちらが大事か、という対立軸が明白なのだが、「家族と友人とペット」などと選択肢が増えてくると、「まあ何だかんだペットは仕方ないよね」なんてことになったりしてジレンマの均衡を維持するのが困難になってしまったり、均衡を無理に維持しようとして、じゃあ「疎遠な家族と月に一度だけ会う友人とペットと昔お世話になった先生」なんてことになってくると、何を比べているのかよく分からない選択肢になってしまう。これが「非最適」な状態。

かといって選択肢が2つなら絶対にいいかというと、それも悩ましいところで、価値観の対立軸が明白すぎるが故に、デザイナーの問いかけがあまりに見えすぎていて、「自分で問題を考えている」というよりも、むしろ「ゲームから問題を押し付けられて選ばされている」という感覚に繋がりやすいので、自主性が強いプレイヤーにはむしろただの「確定貧乏くじ引き」に思えてしまう。ただし物語の誘導力・主人公への共感性が高い場合には「これは主人公の運命なんだ」という風に不可視化しやすいので、物語の設計や強度に依存する問題のように思う。

また別問題として、ゲームならではの制約というものが出てきてしまうことを考慮する必要がある。直近で上げたチワワの肉を取る例でいくと、「海鳥が獲れるか」という不確実性が意思決定に絡む例が出てきてしまう。ゲームは「やり直しが可能」「ゲームオーバーになる選択肢は事実上選択不可能な選択肢」という性質を持つので、これだとジレンマとしては成立しない。現実にあった似た例で、「アフガニスタンで隠密行動中の米軍兵士が現地人の男に見つかってしまった。タリバン側であった場合、この男を殺さなければ味方が奇襲を受けて死ぬ可能性があるが、タリバン側でなかった場合、この男を殺せばただの非戦闘員虐殺になる」というケースがある。この場合、兵士は殺さないことを選んだが、男はタリバンに通報し、部隊は実際に奇襲を受けてその兵士を除き全員が戦死した。ゲームにおける架空の心の痛みなど、現実のトラウマに比べればかすり傷でしかない、のかもしれない。

2.問題提起の重要度

先に言っておくと全ての選択肢が必ずしも鬼気迫る決断でなくてはいけないのではなく、これはあくまで「心が傷つく選択肢」に関する考察 なので、選択肢全般に関する技法論はまた別の機会にやりたい。

そこで「心が傷つく選択肢」 に至っては、ゲーム品質の根幹にかかわる最重要のフィーチャーなので、問題提起は重要である他ありえない。・・・のは当然なのだが、もう一つ因数分解してみると、重要度というのはその選択が示唆する帰結の重大性・影響範囲、選択肢の情報解像度の掛け算になるように思う。

 帰結の重大性とは人命のような客観価値観または尊厳のように主観的価値観に深く関わるテーマ性を持つこと。影響範囲とは、友人グループから地域、国家など、どれだけ大勢の人にその帰結が作用するか。バタフライエフェクト的なタイムトラベルものは影響範囲が前述の掛け算の中で大きな変数になる傾向があるかもしれない。情報解像度とは、それまでのプレイ中にプレイヤーがどれだけその選択肢を決定するかに関しての判断材料を与えられているかということ。

特に前者二つはとりわけ物語論的なものになってくるので、今回はデザイン技法に関する話として情報解像度についてフォーカスしたい。これはゲームに独自の概念ではないものの、ゲームの特性として、プレイヤーがどれだけの情報を摂取する・できるかはデザイナーの裁量とプレイヤーのプレイ方法に依存する点がある。

デザイナー的にはあえて選択肢が見つかりにくいよう隠すこともできるので、一部の選択肢だけ解像度が上がり、アンバランスな設問を作り出す(してしまう)ことも想定できる。あえてバランスを崩すことで片方の選択肢に誘導し、周回プレイ時にもう片方の選択肢を選ばせるといった順序付けが、良きにも悪しきにも可能になることは頭の片隅に置いておく必要がある。とある主人公が舟の櫂で戦うゲームで瀕死の重要人物を助けるか放置するかの選択で、普通は当然助けるのだが、助けなければその人物は結局助かる上にオマケで強力かつ存在感のある仲間が加入するというのが露悪的というか意地の悪い選択肢になっているというものがあり、あれは衝撃を受けたもののゲーム黎明期故の一発芸という評価になるのか、自分でも正直まだあまり評価が定まっていない。他の人の意見が知りたい。

また、当然だがプレイヤーがストーリーの最短攻略を好む場合やゲーム内手記とか手帳、百科事典などの付加要素的なテクストを読むのが嫌いな場合でも、解像度が必要最低限になるように計算してメインストーリーの中に情報を散布していく必要がある。

というのはゲームにおいてどのタイミングでその選択肢を投入するか、というのも影響してくるので、特にゲームの開始時点で出合い頭に「心が傷つく選択肢」を投入する、というのはかなりハードルが高い。いやそんなこと考える奴はいないか・・・?仮定の話です。

 少し脱線すると、いくらか序盤でも投入自体は可能で、必ずしも運命の選択は物語の終盤で、と決まっているわけではない。特に有名な某「僕にその手を汚せというのか」はゲーム序盤のクライマックスとして投入されている。ネタバレしないよう詳細は伏せる。

3.プレイヤーのコミットメント

「はてしない物語」のように、人間がゲームの中に入っていくことは、もちろんできない。だが、そう錯覚することは可能だ。要は「プレイヤーがどれだけ選択肢を自分自身のものとして捉えているか」の問題をコミットメントという。ゲームへの没入度、とも解釈可能だとは思うが、例えるなら「カジノに1000万突っ込んで、負けたら人生即終了」みたいなイメージを表現したいのでコミットメントという言葉を選んだ。

 自分の分析例が少ないので実証ベースの概念としてはややふんわりしているのだが、このコミットメントはつまりカジノに金を突っ込むように、プレイヤーにとって大切な何らかの財を投入することで、自身の一部をゲーム内に移動させるという行為だ。

例えばいくつかのゲームでは、とあるキャラクターが自身の命を賭して敵に特攻を仕掛けるといったシチュエーションで、「好感度が一定以上」を条件にそのキャラクターの生死が分かれたりする。この場合、プレイヤーは自分の「キャラクターへの愛」を投入するという行為がコミットメントとして評価されている。つまりプレイヤーのコミットメントが大きければ大きいほど、選択の導く帰結がプレイヤーにとってより大きな衝撃として跳ね返ってくることになる。ただし好感度と選択肢を関連付けるには、好感度が「投資」という性質を持つ以上、相応のリターンがなければこのインタラクションは意味を為さない。なので「好感度が一定以上なら新たな選択肢が出現」といった手法になってしまい、しかもその新しい選択肢を選んだ方がリターンが大きくないといけない、といったバイアスがかかることを考えると、ジレンマを成立させるのは難しくなってくるだろう。つまりこの場合ジレンマの最適化とは効果が反比例する。

 もしくは、単に関連付けというのであれば「好感度を上げるために選択肢を積み重ねる(あるキャラに気に入られる言動をする)」という手法もあるが、この場合は好感度に選択肢が従属する形になるので、好感度そのものが帰結を左右する要素であるべきだから「心が傷つく選択肢」とは趣旨が反する。

またはプレイヤーが直接的に投入して育てたもの、つまりセーブデータ(=労力と時間)を消費(消去)するのと引き換えに物語に影響を与える、というパターンも少数例存在する。この場合はあえて「データを消去する」という選択肢を作ることで、ジレンマの質そのものがプレイヤーと主人公の利害関係へ変わることになる。より直接的にプレイヤーが関わるので効果的な側面がある一方、印象が強すぎて何本も似たようなことをするゲームが出回ると興ざめもいいところだろう。色物手法としての色彩が強いという言い方になってしまうか。

ある意味リアルマネーも投入物としては一応考えられるが、その場合プレイヤーがプラットフォームとパブリッシャー/ディベロッパーに対して課金する、という百年の恋も冷めるような構図を否応なく想像させられ、TCR等のため味気のない注意喚起UIなども見せられるだろうから、それは流石にあり得ないとしか言いようがない。また投資額の価値もたとえ1000円だとして、プレイヤーの経済状況で1000円の価値は相対的に、または景気によって変化するので、そもそも論外だろう。

といったところが主に想定しうる「心が傷つく選択肢」にまつわるデザイン技法的な論点になると思うが、まだ考察から漏れている着眼点が幾らでもあるような気がするので、この分野の懐の深さにまだ自分が食い込めていないような気がとてもする。面白いデザイン本やトロッコ問題の論文などあれば当たってみたい。ご紹介いただければ幸いです。

3 comments:

  1. http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~babahide/bblibrary/scoopsrpg/contents/baba/baba_20000417.html
    (馬場秀和. 2000. 「外に向かう言葉 後編」)
    自分が選択肢について考える時の基準になっているコラムです。
    意志決定(Decision Making)は
    (1) 葛藤(有意な・有限の選択肢)
    (2) 結果に対する責任(リスク・メリット・リワード・サンクション等、明確な重み付け)
    (3) 説明可能性/アカウンタビリティ (1,2の選択に際してどれも最適解を絞り込み難いような“尤もらしい”説明が付加可能なこと)
    これら3つの要素が連合した時にヨリ良く成立する
    という仮説ですね。
    斎藤コラムはこのうち1,2については論じているかなと思うけど、3の話はそんなになかったかも。「選ぶ前」「選んだ後」のプレイヤーの非パズル的納得感、ということですね。
    たとえば、(本論の例に出ているのが「物語的な意志決定」に対して)非物語的なゲームの話を挙げることになり恐縮ですが……ローグライト系(Faster Than Light, Slay The Spire, Hades, Vampire Survivors)などがなぜそこそこ中毒性があるかというと、あれはメカニクスレベルで「説明可能性(accountability)」が振り返って可能っぽく思えるからですね。「あのときあっち取っておけば〜」とできる。つまり、漸進的・多発的に、プレイヤーの指し手にアカウンタビリティを要求する選択ゲーになっている、ということ。
    さて、なぜローグライトの話をここでしたかというと、「ローグライトは始終細かい“ああすればよかった”を生成するので、そこに序盤終盤という偏りはない(もちろん、データビルド的にはしばしばありうるけど、アカウンタビリティ重視の意志決定機会は一部始終にちらばっている)」ということが重要だと私は感じているのです。

    これは「僕にその手を汚せというのか」的な「前半への偏移」、「せかいのはんぶんをおまえにやろう」的な「後半への偏移」とも違う、散漫に遍在するアカウンタビリティだよな、ということを考えていたのでした。

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    1. アカウンタビリティに関しては「2.問題の重要度」においての情報解像度の話の範疇ですね。
      選択肢各々を吟味するための情報を事前に明示的・非明示的にプレイヤーに渡しておくことですね。

      今回はゲームの物語における効果論がテーマなので、
      意思決定論にしてメカニクスやレベルデザイン面の意思決定まで考え始めると
      おっしゃるとおり多少論旨ずれかなと。(メカニクスが物語に直接連動しない場合に限り)

      それはそうとして序盤終盤の偏りが無いことが重要、というのはどういう意図でしょう。
      それって今回の趣旨に照らしなおして考えるなら、
      1.ゲームの面白さを担保するためにゲームループに意思決定が組み込まれてる必要あるよね、というシンプルな話なのか、
      2.物語もゲームループに組み込まれていることことが実は理想である、という話なのか、
      3.物語的な意思決定が序盤・中盤・終盤等の盛り上がる局面に合わせてそれぞれ選択肢があるべき
      という話でしょうか。

      これも考証しておくと、
      1.はもちろんそうですね。なかったらゲームメカニクスが成立してないか、リニアなヴィジュアルノベルとか
      特殊なジャンルってことになると思います。RPGとかルーターシューターやハクスラだったらレベルデザインが一部を担いますね。

      2.メカニクス的な最適解と物語的に求めている最適解がズレると、メカニクスが作業の最適化を求める限りにおいては、
      作業最適化と感情的な選択がバッティング可能性をはらむので、メカニクスが物語の結末に影響を与える、
      というギミックは単発であるべきで、ループに組み込むのは成立しない。

      3.は物語的な意思決定がゲーム的に重要なフィーチャーであるなら、メカニクスとは独立してループに組み込むべき、
      という意味であれば至極同意です。評価軸として採用する価値があるなと思います。
      その物差しで測ってみると、ドラクエ1はそういう意味では物語が短すぎるのもあってループとしては成立してないし、
      単発ギミック扱いで物語体験にも大したインパクトはないので、物語的な意思決定ゲームとしての評価は低いですね。
      タクティクスオウガは序盤の「僕にその手を」は中盤の分岐に大きな因果関係があるので効果的ですが、
      その選択肢におけるテーマの回収が中盤で終わってしまって終盤が意思決定的な空洞になっているので、
      終盤の評価は低いと言えるかもしれない。終盤意思決定はあるし単発での効果は高いと思うけど、
      ジレンマ最適化ではなくコミットメントによる効果の最大化を狙う別タイプの選択肢で、
      かつ序盤の選択とはテーマ的に繋がっていない。


      馬場論文で面白いと思ったのはむしろここでした

      馬場論文からの抜粋:
      =========================================================================
      ここまでの説明で、“意志決定”とは、複数の選択肢の中から1つを選ぶ際に、
      何らかの根拠のもとに自分で決断する行為であり、そこから生ずる結果ではなく、
      選択/決断というその行為自体に価値があるもの、であるということは分かった。
      しかし、まだ疑問は残る。「その行為自体に価値がある」というのは、どういう
      ことなのか。

      ここで言う「価値」とは、明らかに「金銭に換算できる」「取引の材料になる」
      という経済的な意味ではない。「稀少である」「情報量が多い」といった意味で
      もない。それは、ひどく主観的な「心惹かれる」「魅力を感じる」といった意味
      の「価値」なのだ。すなわち、人間は“意志決定”という行為それ自体に魅力を
      感じるということだ。
      (中略)
       要するに、助言者(占い師、藤原佐為、ソフトウェア、アルゴリズム)の介在
      が問題なのではない。たとえ自分で選択/決断したとしても、選択基準がはっき
      り決まっていて、悩む余地がない、葛藤がない、ということが問題なのだ。人間
      は、ある定まった手順やアルゴリズムによる選択/決断には、葛藤がないゆえに、
      魅力を感じない、というわけだ。
      =========================================================================

      馬場論文の優れているのは「感情に揺らぎを与える」ことの重要性をロジカルに説明しているところで、
      要は定量比較できてはダメで、価値観でジャッジして定性比較する選択肢が重要ということですよね。
      なのでこの記事内では「1.ジレンマの最適化」選択肢の均衡について触れた際の説明が改善できるなと。、
      「家族と友人」では定性比較が可能だが、「家族と友人とペット」になった際にある程度定量比較で
      絞り込みができてしまって、感情的に冷める、という説明になっていればもっとソリッドな論旨になると思います。

      で、馬場論文がダメなのはプレイヤーの愛に対してどう受け皿を用意するのか、というコミットメントの問題をカバーしていないとこですね。
      これはプレイヤーが自分でキャラを用意してその場の関係性でプレイヤーが物語補完するTRPGを前提に話しているからだと思います。

      スタンドアローンのゲームが違うのは、背後にいる作り手が見えてないのでキャラクターが相対化されるので、
      「愛着」とは別により深い感情移入ができること。
      これはTwitterでコメントくれた人も似たことを言ってましたが、その人は
      「主人公がプレイヤーの分身として画面の中に居るときよりも、プレイヤーはあくまで画面の外から
      作中キャラクターの運命を決定する、という形式のほうが却って良心の呵責度がアップする印象はある」
      と言ってて、俺は感情移入の対象が相対化されていたほうがプレイヤーとしての自分の主体性がはっきりするから、
      意思決定のコミットメントが強化されるということだと解釈したんですが、そういう意味ではTRPGでは
      コミットメントが成立しにくいのかなと思いました。

      なんか眠くてボーっとしてるからあとで読み返したら頭の悪いコメントになってたらたらどうしよう。

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    2. ちなみに、西洋RPGでは感情効果的な意思決定効果を吟味してるケースよりしてないケースが多い気がします。例えばFable3かなんかではプレイヤーが盗みを働くと勝手にキャラの見た目が悪そうに変わるとか、メカニクス的な効率化をエステティクスに関連付けてたり、Divinity2の会話選択肢はうまく選択することでクエストが成功したりロールプレイ的に好きな選択肢を自由に選べるようにしてあったりで、あえて感情効果よりクイズ的な遊びであったりなりきりの満足度を高めるための選択肢であったり、割とTRPG的進化の痕跡器官が残ってますね。日本のRPGの選択肢における意思決定はどちらかといえばTRPGよりヴィジュアルノベルの系統に祖先を持ってるってことなのかな。

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